大いなる無駄

好奇心のおもむくまま、たゆたう日々を。

笑いの壁

笑いを共有するのは難しい。

可笑しさには、視覚的なものと言葉のニュアンスで面白いと感じるものの二通りあると思う。

 

目で見えるものは共有しやすい。

しかし言葉のおかしさは、長年その言葉を使い親しんだものに限定されてしまう。

 

これは7年前、カムチャツカに留学していたころの話。

現地の友達とロシア語で話していたが、
何が可笑しいのかわからないことがよくあった。
単純に話している言葉の意味が解らないときもあるが、
言葉の意味はわかるのに、その言葉の向こう側にあるおかしさには届かないのである。
生きてきた文化が違うのだから仕方がないのだが、
これは随分と寂しいものだった。


けれど、初めて一緒に大爆笑できた出来事があった。
まだ留学生活2ヶ月目くらいだった私にとってとても嬉しいことだった。


まだ雪が積もっていた寒い4月のこと。

バス停で友達4人でバスを待っていた。
他愛もない話をして、なかなか来ないねぇといいながら車道を確認していたら
ジェーニャが何かに気づいてさらりと言った。


Ой посмотри!Красная шапочка идет!
(ねぇ見て、赤ずきんちゃんが歩いてる!)

 

何のことかと思って反対側の歩道をみると、真っ赤な帽子をかぶった小柄の老人が歩いていた。
服は控えめで質素なのに、彼の頭の上には目を見張るような深紅の赤い帽子がのっかっていた。

そう、かぶるというよりのっかっていたのだ。
しかも彼はこちらに向かって車道を横断して歩いてきている。
ちょうどバスが来たところだったので軽く小走りしてくる。

私の頭の中に子供の頃からイメージしていた「赤ずきんちゃん」と
今目の前にいる「赤ずきんちゃん」との相違がたまらなく可笑しくてふきだしてしまった。

先にバスに乗車した私たちは、乗り込む赤ずきんちゃんから目をそらしうつむいた。
老人に気づかれて気分を害してしまったらいけないと思ったからだ。

ジェーニャの「Красная шапочка идет」が
私の頭の中でリピートされ、反対側に座った老人に何度も目をやってはうつむいた。


どうしてこの帽子を選んだんだろう。
しかもデザインがなんとも形容しがたい。
決して奇妙な形ではないけれど、よくよくみると変わっているのだ。
浅めのホールケーキの上にもう一つ小さな山を盛ったような。
しかもこの生地、フエルトっぽい毛羽たち加減がたまらなく笑いを誘う。
灰色の雪景色の中で、彼の赤は刺激的だった。

バスを降りてから笑いを我慢していた私たちは大爆笑して、
その後しばらく「Красная шапочка идет」は私たちの中で流行語になった。

 

ささやかな出来事だったが、ジェーニャが可笑しいと思って言った言葉を正しくくみとれたことが嬉しかった。
老人の視覚的効果が大きかったけれど、単純に「あのおじいさん赤い帽子かぶってるよ」ともいえたところを
赤ずきんちゃんがやってきたよ」といったジェーニャの笑いのセンスが理解できた気がして嬉しかった。

 

言葉は生き物だ。
外国人の私にとって完璧な習得なんて到底遠い目標ではあるけれど
言葉の向こう側にある文化を理解する努力はしていたい。

笑いの壁を越えていきたい。